時は平安―。
京の都の四条大路と木辻大路の角に一つの邸がある。階位九位の地方 、高瀬政文の邸である。
政文のには十五になる一人のいた。
名を、蓮実。
その名にふさわしく、蓮の花のように透き通るような肌を持った、美しい姫君であった。
宮中の女房は噂好きだ。
たかが噂、されど噂。女房たちの噂話にも、男たちの興味を引くものがあった。
川原宗斐(かわはらのむねよし)もその一人だった。
川原宗斐は二十一歳で従七位の官を、そして今年、二十七の歳で従五位の官を授かった貴族である。
「おい宗斐、聞いたか?四条の姫君の噂」
宗斐の友、泰洋富(はたのひろとみ)がそろりと近づいて訊いた。
「もちろん。なんでも透き通る肌と、玉のような髪の持ち主と。ぜひともこの目で拝みたいものだ」
「なんだ、早速訪ねるのか?」
問われると宗斐は顔の前に扇子を広げ、さあ、とはぐらかした。
これは今夜にでも行くつもりだな、と洋富は思った。
宗斐は女癖の悪さは宮中ではちょっとした噂になっている。二十七歳にして従五位の官を授かったエリートで、整った顔立ち。本人も調子に乗ってしまうこともわかるが。
「でも、蓮の姫君はそんな簡単に落とせるかな。随分とつれないお方だとも聞いたぞ」
「蓮の……?」
「通り名さ。蓮の花のように美しいそうだ」
「ほお。それは」
楽しみだ、と宗斐は続けた。
さっきの質問はどうやら愚問だったらしい。閉ざされた扇子からあらわれた顔は自信で漲っている。
「それでは、また。洋富殿」
「ああ」
宗斐は直衣を翻し、軽やかな足取りで去っていった。
夜の四条通りを、一台の牛車が走る。目指すは右京の高瀬政文の邸、蓮の姫君のところだ。
新月の光に導かれたどり着いたのは、お世辞にも立派とは呼べなく、邸と呼ぶにも躊躇してしまうほど、寂れた邸だった。
こんなところに麗しの姫君がいるのだろうかと怪しく思いつつ、宗斐は垣根を越える。
「たれぞ?」
垣根を越えると、御簾の下ろされた部屋
から高い声がかかった。どうやら、例の姫君の部屋らしい。
「夜分に申し訳ない。政文殿の姫とはそなたのことか?」
随分と傲慢な聞き方だ。
姫君から返答はない。
「そなたか?」
宗斐は先程よりも声量を上げて訊いた。
「人に名前を訊く時はまず、自らが名乗るものが礼儀ではありませんか?」
返って来た声は高く、凜としていたが、可愛いげのない返事だった。
宗斐はふぅ、と溜息をつく。この手の女はプライドが高く、機嫌を損ねると後々めんどくさい。じっくりと攻めていかないと、肌を見ないうちに追いかいされてしまう。
「それは失礼を。わたしは名を川原宗斐という」
「川原……」
姫君は呟くとそのまま黙ってしまった。そこを宗斐は更に攻める。
「月明かり 誘わるるは 我がこころ 蓮やう君を ひとめ見んと」
宗斐は御簾の前で朗々と歌った。
月明かりに誘われて、わたしはここまで来たのです。蓮のような美しいあなたを、一目見ようとして。
姫
君は何泊か置いて、返歌を贈る。
「……月明かり されど照らさぬ 蓮の花 雲かかるやうに 覆い隠さん」
宗斐は持っていた扇子を口にあてて呟く。
「ほんに可愛いげのない」
「聞こえてますよ」
くすくすと笑いながら女が言った。
月は明るく照らすけれど、わたしの心は雲が隠したように照らしません。
月明かりに誘われたと歌った宗斐の心に対して、女の心は雲に覆われて隠れていると歌っている。つまり、宗斐の誘いを断る返事だ。
「猛き姫君ってことです」
宗斐はにっこりと微笑む。たいていの姫ならばこの微笑み一つで顔を赤らめる。
「お褒めに預かり光栄です」
女は茶化すように言う。
「あなたはことは聞いてますよ。とても麗しき人と。是非ともお近づきになりたいですね」
「積極的な方なんですね」
「積極的な男はお嫌いで?」
御簾の中の姫は袖で口元を隠して、上品に笑う。
「いえ、決して嫌いではありません。ただ、宗斐様。風の噂でわたしもあな
たのことを存じております。随分と多くの姫君と交流をお持ちのようで」
女が言っているのは、宗斐の女遊びのこと。宗斐は思わず苦笑いになる。
「さがなき人だ。いっそ風が吹かなければ、わたしのそのような噂もあなたの耳に入らなかったろうに」
「あら。風がなければあなたはわたしに会いに来ることもなかったのですよ」
宗斐は扇子を広げて顔を隠す。どうやら姫の方が一枚上手のようだ。まさか自分がこんなに軽く脚らわされるとは。
今日はこれ以上恥じをかく前に退散した方がよさそうだ。
「敵いませんね。今日はそろそろ帰りましょう」
宗斐は扇子を閉じる。
「それでは、また来ます」
「また?」
御簾の中から僅かな驚きの声が漏れた。
「また」
言い残して宗斐は立ち去ろうとする。その背中に女が言う。
「蓮実」
宗斐が顔だけで振り返る。
「わたしの名前は蓮実と申します」
凛とした声が言う。
宗斐はゆっくりと笑った。
「良い名だ」
* * *
「やあやあ。宗斐殿。聞いてますよ。最近蓮の姫のところに通い詰めているとか。珍しいですねぇ。あなたがこうも長く同じ姫のところに通うなん……」
宗斐に軽く睨まれて、洋富はしゃべりすぎた口を閉ざす。
しかし、それはしょうがないことではないかと洋富は思う。あの女に節操のない宗斐が同じ女の元に一月も通い続けるなんて、真夏に雪が降るぐらいありえないことなのだから。
ふと、洋富は空を仰ぐ。灰色な雲は青空にかかっていない。
「どうかしたか?」
「いや、雪がな」
うん、と洋富は一人頷く。そんな洋富を見て、宗斐は眉をひそめる。そして、夏に雪が降るわけないだろう、とツッコミをいれて先を歩き始める。
洋富はくすくすと笑い宗斐に言う。
「よほどいい女らしいね。蓮姫は」
「さあな」
「それぐらい教えてくれたっていいじゃないか」
「……さあな」
宗斐は同じ答えを繰り返す。
宗斐も素顔を知らないのだから答えられるはずがないだろう。
ひと月。ひと月通ってまだ御簾すらくぐらせてもらえない。彼女と話していると飽きないし、男女という垣根を越えて話しているような感じがするからとても楽しいのだが、
(わたしが拒まれるなんて)
宗斐は自尊心を傷つけられていたのだ。才色兼備の宗斐ならではの屈辱とでもいうのだろうか。
「ではまたな、洋富殿」
「はいはい、さようなら」
足早に行く宗斐の背に洋富は右手をひらひらと動かして見送った。
今までならこんなに焦らされれば、無理にでも女の部屋に上がったかもしれない。しかし、蓮実相手ではなぜかそれができない。
それは、蓮実が気をそがすのが上手いためか、それとも……。
「どうかしましたか?」
目の前の御簾の向こうから高い声。
「今日は随分と静かですね」
「いやですね、いつになったら御簾をくぐらせてもらえるのかと思いまして」
「あら。わたしはいつ痺れを切らすかとドキドキしてましたのに」
蓮見の薄い影がわずかに揺れる。笑っているのだ。
「わたしがそんな無礼な男
とお思いで?」
「わたしじゃありませんわ。風、ですよ」
「……また噂ですか」
宗斐は嘆息する。
蓮実に手が出せないのは、自分の卑しいところを知られているからかもしれない。しばらくは女のところに訪ねるのは控えようか、本気で考えるところだ。
(噂とは恐ろしいな)
シュ、と衣を鳴らして宗斐は立ち上がる。
「行かれますか?」
「名残惜しくはあるがね。またくるよ」
「洋富、私は女癖がそんなに悪いか?」
「何を今更。何か悪いものでも食べたのか?」
宗斐の問いに洋富は間髪入れずに答える。宗斐は聞いたくせにジロリと睨む。
「おいおい、睨むことはないだろう」
「睨んではない。見ただけだ」
「………」
洋富は扇子を広げて顔を隠し、その陰で声を殺して笑う。その様子を見て、宗斐は眉間に皺を寄せる。
洋富は急いで顔を上げて、話を逸らす。
「そういえば、君最近女房所に行ってないだろ。そのせいかわからないけど、君にまた新しい姫が
できたんじゃないかと噂になってたよ」
洋富がそう言うのは、昨晩自らが女房所に行って、どこぞの女房にでも聞いてきたのだろう。
「それで洋富殿はなんと」
「さあ、とね」
惚けた顔にぴったりなはぐらかし方だな、と宗斐は思った。
宗斐はそうか、と言うと顔を背けた。洋富は口元に扇子をあて、しばらく宗斐の仏頂面を眺めると、思い出したように呟いた。
「蓮姫と言えば、父親の政文殿が今度三河守に就任したとか聞いたな」
ぴくっと宗斐は体を動かし、顔だけを洋富の方に向ける。
「そのようすでは、知らなかったようだな」
宗斐は否定も肯定もしない。顎に手をかけ、顔を伏せる。
洋富は頭の中で予想をしていた。これから宗斐が蓮姫のところに訪れ、恋歌の一つでも贈るのではないかと。いや、これは洋富のたんなる願望なのかもしれない。
宗斐は父親が従三位の公卿だったため二十一歳で従七位の官を授かった。そして今は従四位の殿上人。顔も良いから周りからちやほやされ、女にも不自由しない。だからだろうか。宗斐は本当の恋をした
ことがないのではないかと、洋富は思う。
「いかないのか」
洋富は問う。
「何処へ」
宗斐は冷めた瞳で答えた。さすがに洋富も呆然とする。
「蓮姫のところへだよ」
言うと、宗斐はふんと鼻を鳴らし、前を向いた。
「何故私がいかねばならない。確かに私に目もくれなかった女はあの女が初めてだったが、それがどうした。私に何をしろと」
「……後悔するぞ」
宗斐はぴたりと歩を止めた。しかし、洋富の方に振り向こうとはしない。
「宗斐、私には近頃の君が生き生きとして感じられたよ。その原因は間違いなく高瀬の姫君。その大切な人を黙って行かせるの……」
「洋富」
宗斐が遮る。
「余計なお世話だ」
そしてまた、宗斐はゆっくりと歩き始めた。
牛車に揺られながら宗斐は頭の中で洋富の言葉を繰り返した。いや、正確には繰り返えされていた。
『……後悔するぞ』
『近頃の君は生き生きと』
宗斐はキュッと拳をつくり額につける。
生き生
きとしていたつもりはない。けれど周りにそう映っていたのか。自分の変化は本人より他人(ひと)の方が分かるのかもしれない。
「しかし、私にできることなどないだろう……」
蓮実にはぐらかされてしまうから手が出せなかった?
違う。大切だから―傍にいるだけでよかった。そんなことは気付いていた。はぐらかしていたのは自分の方だ。
がたっと牛車が揺れる。
『大切な人を黙って行かせるの……』
宗斐は牛飼いに鋭く言い放つ。
「行き先変更だ。右京の政文殿の邸に向かってくれ」
空を仰げば綺麗な新月。最初にここに来た時のことを思い出す。
「月明かり 誘わるるは 我がこころ 蓮やう君を ひとめ見んと」
宗斐は始めて蓮実に贈った歌を歌った。
しばらくして、蓮実から返歌が返って来た。
「月明かり されど照らさぬ 蓮の花 雲かかるやうに 覆い隠さん」
同じように返歌を返し、蓮実は不思議そうに訊く。
「どうかなさいましたか?」
蓮実の優しい問いに宗斐は苦虫を噛みつぶしたような顔をして首を振る。蓮実はそれ以上は追求しようとせず、
「月が綺麗ですね」
「……私たちが初めて出逢った夜のよう?」
「そうですね。あの時の宗斐様は本当に強引でした」
「蓮実もこころなしでしたよ」
「たけき姫ではなくて?」
言って蓮実は笑った。本当に楽しそうに笑う。つられて宗斐も笑った。
今、蓮の姫を愛しく思う自分がいる。
だがら内心穏やかではない。
「あなたは……私から離れていくのか」
宗斐は今、とても不安そうな顔をしているだろう。しかし、彼は扇子で顔を隠すことも、俯くこともしない。プライドの高い彼がそんなことを許せるはずもないのに。
蓮実の笑い声も止まった。
「……私も他の姫君たちと同じように割り切ってくれて良いのですよ」
宗斐は御簾をくぐって母屋に上がり上がり込む。
蓮実は急いで扇子で顔を隠す。楝の襲(かさね)の袿から覗く細い指は白く綺麗で、
噂に違いなく髪も麗しかった。
宗斐は相手の腕を掴んで扇子をはずす。蓮実は目を見開いて必死に顔を隠そうとする。宗斐は蓮実の顎を掴んでこちらを向かせ、唇を奪う。長く口づけは交わされたが、蓮実が静かに宗斐の胸を押して身を離した。こちらを見上げてくる蓮実の目は涙をためて、すねたような顔をしている。うくしい姫君だった。
「……気がすみましたか」
どこまでもつれない蓮実を宗斐は腕の中に包みこむ。
「何故……君は黙っていた」
蓮実が胸の中で肩を落とすのを感じた。
「宗斐様は本気にはならないって噂ですから」
またしても噂か。
宗斐は深い溜息をついた。
「噂のおかげで、女一人口説けないとはな」
しかも、相手は一回りも違う小娘だ。
蓮実は宗斐になびきもしないし、プライドを簡単に傷つける。それなのに、何故こんなにも愛おしく感じるのか。
「それでも私は本気だったよ」
一回ぎゅっと抱きしめて宗斐は呟くように言うと、すっと立ち上がった。宗斐の呟きが蓮実に聞こえないはずがなかった
。耳元に宗斐の唇があったのだから。
「……口づけだけとは、宗斐様らしくありませんね」
「噂と違えたかな?」
宗斐はふっと笑って言った。
「私が契る女は私を恋しく思う女だけだ。あなたもそのように思ってくれるのならいくらでも」
蓮実が顔を赤く染める。あの気丈な姫が何も言えないでいる。宗斐は笑んだ。やはりこうでないといけない。振り回されるのではなく、振り回してやらなければ宗斐ではない。
「いつ京を出る?」
「五日後には」
なるほどと、宗斐は頷く。どうりで母屋の中が殺風景なはずだ。
「それでは」
宗斐は地に降りてそのまま去ろうとする。
「宗斐様!」
蓮実が宗斐を呼び止める。女が大声を出すのははしたない行為。それでも蓮実は訊く。
「私を愛しく思ってくださいましたか……?」
過去形なのは、これが報われない恋だから。
今日で会うこともなくなるから。
宗斐は蓮実に笑顔だけ見せて、また歩き始めた。
(そんなこと言うまでもない)
…五日後
宗斐は自宅で高麗笛を奏でている。
静寂の闇の中に笛の音が吸い込まれていく。
ふと、音が止む。宗斐が夜空を仰ぐと、あの夜から成長した月が輝いている。
宗斐は月を見て悲しげに笑む。今日は蓮実が旅立つ夜。
中納言に父を持つ宗斐と蓮実とでは身分が違いすぎる。それを知っていながら、恋に堕ちた自分。なにも出来なかった自分。
この歳で恋を知り、風のように去っていった。
宗斐は再び笛を奏でる。
何を思い吹くのか。知るのは本人のみ……。