その一、 勝ち目のない勝負はやらないことが時間の有意義な使い方

 在原永羽(ありはらとわ)。十六歳。現役ピッチピッチの高校生である彼女は今憂いていた。
 両肩にはこれから通う高校の教科書が詰められた自分の鞄と何故か同じ鞄を下げている。
「ノロマ。早く歩けよ。俺まで遅刻じゃねーか」
 前方からは永羽の兄、彼方(かなた)が舌打ちしながら彼女をせかす。顔だけ見ればワイルド系ハンサムボーイ(失笑)のこの兄は、妹を奴隷のように扱き使い、いたぶり、虐げる鬼畜男なのでありました。
「……おめぇが起きた時点で遅刻確定だったんだよ」
 ボソリと呟かれた台詞は、常人ならば聞き取ることのできない小さな声であったが、残念ながら鬼畜男・彼方は常人ではなかったために聞きとられてしまったのでありました。
「おめーがもっと早く起こさねーから転校早々遅刻になったんだろうが。荷物持ちだけじゃたらねーのか。こら」
 理不尽な台詞を吐き永羽の両頬を彼方は手加減なくひっぱる。ここで永羽が「何度も起こしたわっ。大体、起きてものんびり朝ごはん食べてめざ○しテレビ最後まで見てたやつが偉そうにそんなこと言うな」なんてこと言った日にはねちねち苛められることは目に見えてるので黙ってされるがままになっていた。
 そんな妹の心の内など知ってか知らずか、兄の身勝手な発言は続く。
「全く。これが原因で俺が苛めの対象になったらどうしてくれるんだよ」
「いや、ありえないから」
 この兄が苛めの対象なんて想像つかない。むしろ逆だろう、という気持ちで永羽はツッコミを入れた。
「わかんないだろー。ああ、俺、ちゃんと馴染めるかなぁ」
 こうも白々しく聞こえるのは何故だろう。
「馴染めるっていうか、むしろお兄ちゃんのクラスメイトがお兄ちゃんに馴れるかが心配……いや、あの、うん。きっと馴染める、よ。だってもともとここら辺に住んでたんだし。知りあいだっているかもしれないし」
 永羽の言葉は彼方の睨みで強制修正をさせられた。
 だが、嘘ではない。もともとこの地域に住んでいた在原兄妹だが、親の転勤で五年間静岡の方に暮らし、先週戻ってきたばかりである。いるとしたら小学校の時の顔ぶれだが、高校ではみな成績と進路の都合上知り合いがいるかどうか分らないが、一人や二人はいるかもしれないのだ。
 永羽の軌道修正が上手くいったのか、彼方はニヤリと笑った。
「ああ、そう言えば綾が同じ高校だったな」
「えっ、綾くんが?」
 綾。本名を政田綾人(まさだあやと)という。
 彼方と同級生であり、この性格破綻の兄と、菩薩か大仏と錯覚してしまうほど慈悲深い綾人は何故か(強調)気が合い、よくつるんでいた。
 永羽は綾人の顔を思い出し、一人で彼方を相手にしなければならないと覚悟していた、なんの花もないタカラマカン砂漠の如き高校生活に僅かな潤いを見いだした。
「でもお兄ちゃん、そんなこと一言も言ってなかったじゃない」
「俺も昨日知ったんだ。同じ高校ならもっと前もって連絡しときゃよかったな」
「えっ、お兄ちゃん、綾くんと連絡とってなかったの?」
「メールぐらいは思い出した時にしてた。こっちに戻ってきたのも昨日思い出してメールした。あー、二時頃だったから今日か。そんで返信が朝きたんだぜ。ったく、マナーってものを知らないのか、あいつは」
(おめえはどうなんだよ!)
   いきなり戻ってきて明日(事実は今日)から同じ高校に通うなんて知って、綾人はきっと朝メールを見て驚いたに違いない。
 永羽は綾人の天使のような笑顔(綾人、小学生時代)を思い浮かべて、同情した。
 二人で仲良く(?)話しているうちに、いつの間にか目的地についていた。もともと家から歩いていける距離にあるためそんなに時間がかかることもなかったのだが。
 ちなみにそれが、在原兄妹の転校先を決めた理由でもある。
「ほら。学校着いたんだから鞄持ってよ」
 永羽は彼方に鞄を突き出すが、睨まれて思わず手を引っ込める。
「中まで運ぶに決まってんだろーが。バカかお前は」
「えっ、やだよ。重いし……」
「あ゛ぁ!?」
「……なんでもないです」
 どこぞのヤーさんかよっとツッコミたくなるほどすごまれて、永羽は兄を諭すことを放棄した。
(私、この人から開放される日が来るのかな)
 うっすら涙目になりながら、先を歩いて行く彼方の後を追った。