永羽は長い溜息をついた。
「どうしたの?あんたこの間朝樹と一緒に超ハイテンションではしゃいでたのに(その十参照)」
「私は重大なことに今更気がついたのよ」
そう気づいてしまった。静岡へ転校した時も同じことがあったのに。今更気づいてしまったのである。そう……。
「私、家に帰ったら相変わらず兄のパシリにされるんだよねぇ……」
永羽は窓の外に視線をやった。それはもう、人生に疲れ果てた四十代の男性サラリーマンのような哀愁を背負っており、十六歳の少女がするような目ではなかった。
「前の学校の時もね、からかいがいのあるやつができたらそいつにかまってるんだけど、ヤツはすぐに飽きるし、彼女ができても気に入らないことができればすぐに別れるし。家では安息などなく、学校でのこの平和な時間も野館先輩に飽きるまで残りわずかだと思うと、私は、私は……」
永羽はグッと拳を握りながら立ち上がった。そしてなぜかこのクラスにいる朝樹の首に両手をかけた。
「こいつの平和そうな顔が憎くて憎くて……」
「でぃぶじんでぁ(理不尽だぁ)」
朝樹はタップタップと永羽の手を叩いて降参する。
「あ゛ー苦しかったぁ。でもさ、彼方さんが野館先輩いじりが飽きたら俺にも被害がくるってことだよね?」
「そう」
きっぱりと言い放つ永羽に朝樹は溜息をつく。たどる運命は同じなのに、なぜ首をしめられなければならないのだろうか。やはり理不尽だと朝樹だ。
そして、案外似たもの兄妹なんじゃないかと朝樹は思った。
「……なんで俺たちってあの人に飽きられないの?」
「……知らない」
ズーンという効果音と共に影を背負う二人。そんな二人に天使の声がかかる。
「そんな落ち込まなくても野館さんはだいじょうじゃないかな」
振り返ればやはりそこには綾人の姿が。
「綾くん。どうして分かるの?」
「え?彼女が君たちと同じ空気を醸し出しているから」
「それは喜んでいいのやら」
「悔しく思えばいいのやら」
「とりあえず、野館先輩を気の毒に思ってやれよ」
千絵子がそうツッコムが薄情者二人はスルーする。
「永羽ちゃんさ、家でも彼方が気になるなら放課後僕とどこかいかない?」
永羽はまさかな誘いに思わず両膝をついて綾人を拝んだ。彼はまさしく菩薩様である。
「いいのですか?」
「もちろん」
微笑みすらも神々しい。
「えー、政田先輩俺もダメですか?永羽と同じいたぶられ同士で」
「なんで?」
冷たい声が教室に響いた。朝樹は発声源が分からず、「え?え?」とあたりを見渡す。
綾人は朝樹の方へゆっくり振り向いて、目を細めて言った。
「なんで、僕が、朝樹くんを、連れて行くの?」
ピキーン。
朝樹だけではなく教室中が凍った。
「じゃあ、後で迎えに行くね」
永羽に笑顔を残し、去る綾人。
朝樹は授業開始のチャイムが鳴り、次の授業の担当であった横溝に教室から放り出されるまで固まっていた。