彼らは、これから第一の関門を突破しようとしていた。
関門到着。現在の時刻、八時四十三分。先日連絡をもらって職員室に出向くように言われた時刻は八時二十分。約二十分の遅刻で教員には第一印象がよろしくないだろうと予測するのは想像に難くない。それなのに、と永羽は奥歯を噛んで思う。
「んだよ。早く開けろよ」
遅れたことの罪悪感など一欠けらもなく、人の尻をゲシゲシと蹴飛ばす(ちなみにまだ荷物は持たされたまま)彼方を永羽は本気で殴りたくなった(実際やったら後の報復が恐いので絶対にやらないが)。
永羽は兄に逆らうことを早い段階で諦め、職員室のドアを開けた。
「失礼します。今日からこちらに転入することになった在原ですけど……」
一斉に振り向かれた視線の中、誰か反応してくれる人を待つ。
永羽の声を聞いて、奥の方に座っていた人物がツカツカと足早に歩み寄ってきた。
が、その人物、絵に描いたようなバーコードを頭にお持ちになっている。しかも頭に乗っている線が急ぎ足でこちらに来ているためか、ゆらゆらと宙に浮いている。
「ぶっ」
永羽の後ろで彼方が思いきり噴き出した。そして、笑いを抑えることなく「ククッ」と笑い続けている。
「クッ、あ、あいつ、髪の毛逆立ってる……。しかも前の方なんて……アッハ、右側に戻ってでこの面積が広くなってるし。ぶククッ、そもそもあいつなんで髪の毛を上に持っていことうと思ったわけ?」
狙ってるとしか思えねぇ、と言って手で口を押さえて笑っている兄。
ありのままの事実を語って欲しくなかった。おかげこっちまで笑いを堪えるのが辛い。
「君たちっ、遅刻だよ。転入早々何を考えてるんだね」
あなたの頭の事情について(色々と)考えています、なんて口が裂けても言えない。
「心配になって君たちの家はこの近辺だろう。近くだからと言って遅く来て言い訳ではないんだぞ。だいたい……」
バーコード(あだ名決定)は説教を始めると、興奮してきたのか、徐々に顔が赤らんできた。
「ゆでだこ」
背後から聞こえてきた呟きに、永羽は俯くことで噴き出すのを堪えた。それでも、肩が震えてしまうのは仕方がないだろう。
「……それでって、さっきからお兄さんの方は何を笑っているのかね」
今頃気づいたのか。先ほどから彼方は永羽と違って隠すことなく派手に笑い転げていたと言うのに。どれだけ独りよがりなんだ、この先生は。
「だ、だって……ハ、あんた、頭から毛ぇなくなって、ゆで」
「あ――――――――りはら彼方くんだねっ!!私は君の担任の三井。んじゃちょっとこっち行こーか。妹さんもこっち来て」
ゆでだこと言い終わる前に、彼方の口は乱入してきた肌が焼けている男の手で塞がた。毛がなくなったと口走ったとは言え、さらにバーコードの怒りのボルテージを上げるだろう禁句を阻止出来て良かった。
三井は自分の席に永羽たちを連れて行き、バーコードを窺ってから口を開いた。
「はあー。お前、いきなり教頭先生を笑い飛ばすなんて……何考えたんだよ」
バーコードは教頭だったのか。狙ったようなキャラだな。
「無理無理。あれはもう、笑って下さいと言ってるようなもんだね。むしろ笑ってやんなきゃキョートー先生の存在価値無くなっちゃうじゃん」
永羽はこの兄に笑われることでしか存在価値を認められないと言われている教頭を哀れに思った。
「……もーいーや。それで、どうして遅れたんだ?」
早くも彼方を相手にすることを放棄した三井は遅れた理由を永羽に訊ねた。しかし、永羽が答える前に彼方があっさりと言う。
「こいつが寝坊したから」
永羽のことを指差し、あまつさえ「やれやれ」と過剰な仕草までして責任を押し付ける彼方を永羽は信じられないようなものを見るような目で見た。あまりのことに声さえでない。
(なっにを考えてるんだ、コイツはー!!!!!!)
永羽が拳を固めて涙目で震えていると、三井は事情を察してくれたのか、溜め息をついて早々に話題を打ち切ってくれた。
平気で人を陥れて飄々としているこの男が憎い。
永羽が彼方を殺気をこめて睨みつけているとその五倍ぐらい威力のある睨みをくらって、さっと視線をそらした。今チキンと言われたら何も言えまい。
「あー、妹の方の担任はあそこにいる横溝先生だから、あとのことはあの人に聞いてくれ」
だんだんと在原兄妹と話すのが面倒くさくなってきたのか、三井は額に手を当てて、隣の机が並んでいるブロックを指さした。
他の教師は授業に出ているのか、そこにいたのは眼鏡の男一人だった。必然的にその男が担任の横溝だと判断できる。
男を見た瞬間、永羽は顔をしかめた。
横溝は見た目二十後半で、かけている眼鏡の奥は鋭くつりあがった糸目で見るからに神経質っぽい。おまけに、この男の髪形もまた、ギャグのようにピシッとした七三分けだ。
「ハハ、また変なのが現れたなぁ」
三井の指差した先にいる横溝を見て、彼方は軽く笑った。しかも、遠慮という言葉を知らないこの男は呟くなどということはせず、普通に話すような声量で言ったのだ。三井が慌てて「バカ」と言いながら口を塞ぐも、それはもう遅いと思われる。永羽はしっかり見てしまった。横溝が湯呑を持っている手がふるふる震えて、こめかみ辺りがピクピク動いているのを。
この状態で横溝に近づくのは激しく拒否したいが、横溝が「早く来んかいゴラァ」ってな感じで睨んでいるので、極力目を合わせず接近する。
「在原永羽です。よろしくお願いします」
「……………………………………………………担任の横溝です」
(声高っ)
あまりの予想外の声質に、間が長すぎることをツッコムのを忘れてしまうほどに衝撃を受けた。
案の定、横溝の声を聞いた彼方はギャハハハハハと遠慮なく大声で笑っている。
もう兄に対して何も反応するまい。永羽は己の平和のためにそう誓った。
「……フン。私のところに来たのがあの非常識な兄の方ではなく君の方で良かった」
眼鏡をキラーンと光らせて厭味ったらしく言うその姿はまさに漫画に一人は必ず登場するウザいクラスメイトキャラだった。
(私もあんたがお兄ちゃんの担任で良かったと思うよ)
絶対先生、血管切れて病院行く羽目になるだろうから。永羽は未だ笑い転げている兄を睨む横溝を見て、そう心の中で呟いた。