その三、 知っているような知らないような人に話しかけられた場合

 永羽は担任・横溝の後に続いてひたすら歩く。
 その間、もちろん会話はなし。
 永羽のクラスはどうやら職員室の真上の三階のようで、クラスが別校舎の彼方とは職員室を出てすぐに別れた。ここでようやく永羽は彼方からの開放感を味わった。それは、隣にいた横溝も同じようで、細く息を漏らしていた。どうやら彼はとことん彼方と相性が悪いらしい。というよりも、彼の性格がいちいち彼方のツボを尽いているため、爆笑されているのだが。ツボをついていると言えば教頭もそうだ。彼は怒るとすぐに赤くなる体質らしく、彼方はさんざん教頭を煽っていた。教頭を怒らすためだけになにか問題を起こさなければいいのだが……我が兄ながら十分考えられる。
 永羽は学校に勤める教員全員に退学だけは勘弁してくださいと土下座したい勢いなのだが、兄の要領の良さを知っているため、今度は迷惑かけてすみませんと謝り倒したくなった。しかし、彼方のことに関してはそう思ってもキリがないことなので、実際にはやらないが。
(でも、これから一番お世話になる三井先生と綾くんだけは一応挨拶だけはしといた方がいいよね)
 永羽がこれから迷惑を確実にかけるだろう兄のことを思って憂いていた時、横溝の呼ばれた。いつのまにか教室についていたらしい。
「では、私が呼んだら教室に入ってきてください」
 そう相変わらず高い声で言って、横溝は先に教室に入って行った。
 教室内では「転校生来るってホントー?」とか「男の子?女の子?」などの声が飛び交っていたが、横溝の、
「静かにしなさい」
 の一言に教室は水を打ったかのように静まりかえった。
 あの高い声はどうやら高いだけではなく鎮静剤にもなる代物らしい。
 ただの陰険な七三じゃなかったんだな、やるな横溝、と永羽が関心していると名前が呼ばれた。どうやらもう入っていいらしい。
 永羽は静かにドアを開いて教室に入った。
 突きつけられる好奇心に満ちた視線にややたじろぎながらも、黒板の前に立っている横溝の隣に並ぶ。転校生として紹介されるのは静岡に引っ越してから二回目だが、やはり慣れることはない。以前兄にそのことを言ったら、

「俺のクラスの野郎共は俺がクラスに転校した初日に下僕に成り下がったけどな」

 その時、どんな自己紹介をしたのか激しく気になったが、知らぬが仏、世の中には知らない方が幸せなこともあると思いその疑問は口に出さなかった。
 そして、永羽ははたと気づく。
(自己紹介考えてなかった―――!!)
 そう、兄の行動と横溝の声ばかりに気を取られていたため、これから自分がする自己紹介を全く考えていなかったのである。
 人間、第一印象が肝心。
 こんなことなら、いっそのことクラスメイトを下僕にするための紹介文を兄から聞いておけばよかった、と危ない思考に走るほど永羽は軽くパニックに陥っていた。
 しかし、そんな彼女の心配は横溝によって霧散されることになる。
「転入生の在原永羽くんだ。転校してきたばっかりで分からないことがあるだろうから、みんなで協力してやってくれ。在原くん、席は窓際の一番後ろだ」
 ………………自己紹介すっ飛ばされました。
「私は何も言わなくていいのかよ!」
 思わずツッコンでしまった。いや、ツッコマズにはいられないだろう、この場合。パニクッていた永羽にとってはありがたかったが、これではただにパニくり損だ。
「……なんだね、なにか言いたいことでもあったなのか?」
「えっ……いや、それは……あの、ない、ですけどね」
 眼鏡を光らせて聞く横溝にしどろもどろに答える。
 言いたいことなどない。というか、言うことを考えてすらいなかったのだから、言えることもない。永羽は「アハハ」と乾いた笑いを漏らした。
 それを見た、横溝は厭味ったらしく溜息をつき、目で席につくように促した。
 同時に、永羽の中で横溝は「今後関わりたくない人間ランキング」に上位に浮上した。ちなみに現在一位を独走しているのは、兄・彼方である。
 永羽はクラスメイトに最悪な第一印象を与え、暗い気持ちで席についた時、斜め前に座っていた女の子が振り向いた。
「永羽、久し振り。わたし、千絵。尾田千絵子(おだちえこ)。覚えてる?」
 目立たない程度に染められた茶色のショートボブに、ややふっくら丸みのある頬。そして、パチパチとせわしなく動く奥二重の目。
「あーあーあー……………………?誰だっけ?」
 永羽は覚えていなかった。