その四、 地獄の日々を送った被害者と薔薇色の日々を送った被害者

 そんな彼女の返答に千絵子は「おいぃぃ!」とSHR中だと言うのにも関わらず立ち上がってツッコミを入れた。
「私だよ。ほら、よくあんたの兄貴にいびられ、パシリにされ、泣かされていた朝樹(あさき)のあ・ね!」
 千絵子の言葉で永羽の中である少年の顔が浮かび上がり、目の前の少女のことも思い出す。
「思い出したー!!お兄ちゃんが私のところに来る度、一人だけ忽然と姿を消してた薄情者の千絵ちゃん!」
「誤解を招くような言い方をするな!」
「だって、事実じゃん」
 そう、千絵子はよく双子の弟朝樹と永羽と三人で遊んでいたが、彼方が来る時はいつも姿を消していて彼方の身近な人物で綾人を除いて唯一パシられることを回避してきた人間である。
「あれは、体が示す生存本能に忠実に従ったまでよ」
 さも自分は悪くないと主張するように言う彼女は、実は十分罪人だ。
 小学生時代、なんの因果か六年間同じクラスだった千絵子の双子の弟、朝樹は永羽に同じ匂いを感じ取ったのか、よく一緒に遊んでいた。そして、必然的に姉の方の千絵子とも遊ぶようになったわけだが……。永羽と朝樹、共に同志と言うだけあって、ことあるごとに彼方にいびられていた。彼方に苛められるたび、永羽と朝樹は涙を拭いながら、

「あんな魔王に負けないように生きていこうな」
「毎日おひさまとおつきさまにお祈りしよう。あのサタンがいつか人の心を取り戻しますようにって」
「永羽、お前優しいな。俺なら真っ先に滅してくれるようにお祈りするのに」
「一応お兄ちゃんだからね」

 との会話を交わしたものだ。今思い出しても、なんていじらしい子供なんだと思う。そんな誓いを立てた朝樹は親友ではなく心友という位置についている。
 それに比べて、千絵子はヤツが近づいてくることが分かっていながら永羽たちには一言も告げることなく避難しているのだ。以前、なんで知らせてくれないかと聞いた時「だって、そんなこと言ったらわたしが閻魔に何されるかわかったもんじゃないしぃ」と言いのけた。この時どれだけ首を絞めてやろうと思ったことか。
 とにかく、彼女の平和は永羽と朝樹の犠牲の上に成り立っていると言っても過言ではない。
(あっ、思いだしたら目が霞んで……)
「ちょっと、何泣いてるのよ」
「うっさい。私の大きな目に蚊が突進してきたのよ」
「……言うほど大きかないわよ」
「そんなことあるよ」
「思い込みって哀れね」
「えっ……ちょ、やめてくんない。その可哀そうな子を見るような目」
 そんなことを話しているうちにいつの間にかSHRは終わっていたらしい。転入生ということもあってか、永羽の机の周りに人が集まってきた。
「在原さんって千絵と知り合いなの?」
「うん。小学校が一緒だったんだ。私、五年前までこっちに住んでたの。あっ、私のことは名前で呼んで」
「分かった。私のことも“あっちゃん”って呼んで。あと、さっきの話からすると、朝樹くんとも仲がいいの?」
「朝樹?うん、当時は仲良かったよ」
 もっとも、静岡に転校してから、彼方のいびりが永羽に集中し、地獄の中学校生活を過ごしていたためにさっきまで存在自体忘れていたのだが。
 思い出し、心の友は元気にしているだろうか、としみじみ思っていると、「いーなぁ」とか「羨ましい」などの主に女の子の声が聞こえてきた。
「何が羨ましいの?」
「だって朝樹くん、爽やかだしかっこいいじゃん。上の学年からも人気あるんだよ」
 そう教えてくれたのは黒髪ロングが似合うキミちゃんだ。しかし、永羽は首を傾げる。キミちゃんが言った朝樹の特徴と永羽が知っている朝樹が重ならない。
 朝樹の特徴と言えと言われてまず思い浮かぶのは鳥の巣頭(伸び放題の髪にもともとの癖っ毛が加わり爆発したようになっていた)。そして、チビ(当時は永羽の肩ぐらいの身長だった)でヘタレ。あの眉をハの字型にした情けない顔のどうをどうやったらかっこよく映るのか。永羽は彼女たちに真剣に眼科を紹介しようと思い始めていた。
「永羽、朝樹が人気あるのはほんとなんだよ」
「うっわ、千絵ってばブラコンだったの?私にはとても理解できないコンプレックスだわ」
「違うわ!あのね、あいつ、彼方さんが転校してからはもう、生き生きしててね。あんたたちが転校したってことを聞いた時、悲しむどころか涙流しながら阿波踊りし始めるし、『神様ありがとう!』なんて太陽に向かって叫ぶし。中学入ったら、身長も伸びて髪も切ってテニスを始めたら不思議とモテだしちゃってねぇ。まさに今、調子に乗って遊び呆けてるのよ」
「なななななんだって――――――!?」
(あんの野郎は、人が地獄のような生活を送っていたのに、一人で薔薇色の人生を楽しんでいたのか!?許せん。何が心の友だ。帰ったら、早速お兄ちゃんに朝気が調子に乗ってるって報告しないと)
 哀れ、朝樹の薔薇色ライフはこの瞬間終わりを告げようとしていた。
 その時、廊下にも転入生を見ようと集まっていた人を押しのけ、教室のドアを開け放ち、永羽の名前を呼ぶ人物が現れた。
 パアと顔を輝かせるややパーマがかった男子生徒は笑顔がとてもよく似合う。
「永羽、久しぶりー」
 笑顔のままこちらに近づいてきた彼に永羽が言ったことはと言えば、もちろん、
「え?どちら様ですか?」
 こんな人、身に覚えがございません。