芦名帝(あしなみかど)は無表情な表面とは裏腹に、胸はドックンドックンと常にない大きな鼓動に悩まされながらありえないほどの緊張を強いられていた。この症状は、もう一ヶ月の間続いている。
 しかし、もともと表情が表れにくい性質なのか、周囲にそれは悟られていない。
 そう、事情を知る一人を除いては――。

「いよいよ待ちに待ったホワイトデーだな」
 背後から突然ガシッと肩を掴まれ囁かれた台詞に、帝はドッキーンと心臓が体を突き破って出てくるのではないかと思うほど、動揺した。
「あれれ〜。芦名クン、まだ寒さも遠のいていないのに汗をかいているけど、大丈夫かい?」
 明らかに笑いを含んでいるのに、心配しているような口調で訊ねてくるこのうっとおしい男の名前は水本久志(みずもとひさし)。唯一、帝の緊張の原因を知っている人間であり、
「近寄るな、バカが。自分の席に戻れ」
「あー、そんなこと言っちゃうの」

「お義兄様になるかもしれない、この俺に」

 帝が想いを寄せている少女の兄であった。
 思えば、桐子への片想いの日々も久志の「あ、桐子だ」という体育でグランドに出ていた自分の妹を発見した時に発したなんともない台詞がきっかけだった。あれが妹だ、と指をさされ、よく見えなかったが長い黒髪のどこにでもいそうな子だと最初は思った。しかし、校内で桐子を見かける度に、「久志の妹だ」と目が行くようになり、「久志の傷みまくった髪と違ってさらさらな髪だ」「よく見れば一重ではなく、奥二重なのか」「また友達にいじられている」など気づけば目で追い、探すようになっていた。そして、最近ではその顔をもっと近くて見たい、こちらを向いてい欲しいなど、いつしか恋の病特有の症状がでてきていた。
「俺がこんな緊張を強いられているのは、お前にも原因があるんじゃないのか!?」
「お前……恋愛感情を他人のせいにするな。失礼な。それに、お前が緊張しているのはおかしな告白の仕方をしたからだろう」
 なぜわざわざ、一ヶ月も返事を先延ばしにして生き地獄を味わっているのか理解できない、と久志は言う。
 そんなことは言われなくても分かっているのだが、あの時は緊張していたし、初めて相手の口から聞く言葉が「ごめんなさい」というのはどうしても嫌だった。
 しかし、今すぐ振られたくなく、一ヶ月返事を先延ばしにしたが、帝は今日まで桐子になんのアプローチをしていなかった。つまり、桐子は一ヶ月名前も知らない人への返事を考え、返事をする手段が分からないまま今日を迎えたということである。
「いやぁ、しっかしバレンタインの時は驚いた。帰ってきたら、自分用にしてはやたら上等なチョコレートを一人で食ってるし。『友達からか?』って聞けば『無駄に顔が良い男からもらった』って言うし。次の日学校に来ればお前は頭抱えてるし?」
 帝は無言で久志を睨みつけ、落ち込んだ。
 今思い出して、恥ずかしくて仕方ない。初めての告白は大衆の面前でひっくり返った声とどもりまくった口調という、最悪なものになってしまった。
 次の日テンションの低いまま学校に行けば、何やら感づいたらしい久志がニヤニヤした顔で絡んでくるし、開き直って桐子の様子を聞けばはぐらかされるし。この一ヶ月間、生きた心地がしなかった。
 しかし、それも今日が最後となると早く終わって欲しいような、欲しくないような。
 振られるくらいならいっそ逃げてしまおうか、とネガティブ思考に陥っていたらすでに放課後になっていた。
「じゃっ、がんばれよー」
 と言い残し、久志はこちらが縋る隙を与えずさっさと帰って行った。
 帝は表情には表れないものの、内心ビクビクしながら玄関に向かう。前方から歩いてくる生徒がスカートで長い黒髪だった時は相手が通り過ぎるまで一時停止してしまっている挙動不審ぶりである。
 桐子と会わず、下駄箱に着いた時は思わずほっと息をついてしまった。
 しかし、今日二度目もドッキーンが帝が息をついたのを見計らったように襲った。
「あの、芦名先輩、ですか?」
 帝は崩れ落ちなかった自分を褒めてあげたかった。振り向けば、そこにはやはり、自分の思い人の姿が。
「……返事?」
 問いかけた自分の声は情けなく震えていた。
「あ、はい。あの好意を寄せてもらえて嬉しいんですけど、わたし、先輩のこと全く知らないんです」
 これは嫌な方向に向かっているな、と思ったが、自分が何もしなかったのだからしょうがない、と無理やり納得させる。
「わたしが知っていることと言えば、顔が良いことと、どうやら兄ちゃんの友達らしいということだけなんです。でも、先輩もわたしのことよく知らないじゃないですか?」
「……俺はただ、見ていただけだから」
 弱り顔で帝は言った。
 帝は遠くから見ていたので、桐子がどんな風に笑うか、周りにどんな友達がいるか知っていたが、今日までどんな声で話すのかは知らなかった。まだまだ、知らないことが多いのだと気づかされる。
「今現在、わたしは先輩の気持ちに応えられません。……でも、先輩がどんな人か知りません。だから、応えられないって言っておいて何なんですけど、わたしと友達になってください」
「……は?」
 つまり彼氏ではなく、友達として傍にいてくれということなのだろうか。冗談ではない。この一ヶ月間緊張していた通り、帝は繊細な心の持ち主なのだ。振られて平気で隣にいることなど、出来るわけがない。
 帝が断ろうとした時、
「もし、友達として楽しかったら、自分が好きだなぁって思えそうになったら今度はわたしから告白します」

 わたしから告白します。

 帝はその言葉を頭の中で何度も繰り返した。結局、どうゆうことなんだ。
「いいですか、先輩」
 帝はよく理解できないまま、桐子から告白という甘い誘惑につられ首を縦に振った。
 それから、
「では、今日からよろしくお願いします」
 と、桐子が言い、いつの間にかお互いの携帯番号とメルアドを交換し、いつの間にか家に帰っていた。
 帝は、ボーっとベッドに寝っ転がって桐子の言った台詞を思い返す。
 つまり、自分にアピールする機会を設けられたこということだろうか。
 まずはお互いを知るために友達から。
 相手の告白がなければいつまでも友達という痛いポジションのまま。
(これで良かったのか、俺……)

 芦名帝の戦いが再び始まる。